2016/12/31

#今年よかった展示 2016年の棚卸し

私戦と風景 | 原爆の図・丸木美術館
#今年よかった展示 その1 / この場所に足を運んだことも含んでいるけども。ここで、手塚太加丸さんや当時のヒッピー世代の話を知れたのも良かった。私戦は続く。


アフガンボックスカメラのワークショップ
#今年よかった展示 その2 / 展示というかワークショップ。アフガンボックスカメラで久しぶりの白黒写真。アフガンボックスの成り立ちから見える政治や歴史。


「YOTSUYA BEDROOM」展|The Artcomplex Center of Tokyo
#今年よかった展示 その3 / 「YOTSUYA BEDROOM」展、前髪ちゃん企画。たぶん今年一番滞在時間の長い部屋だったと思います。長い映像の鑑賞を除いて。


Jüdisches Museum Berlin
#今年よかった展示 その4 / ベルリン・ユダヤ博物館のgarden of exileは強烈な体験でした。


あいちトリエンナーレ
#今年よかった展示 その5 / あいちトリエンナーレ、のオスカームリーリョのプロジェクトが日本で行われた際に浮き彫りにされた日本の教育の残念さ、とそれを丁寧に感情を込めて説明してくれたスタッフが最高。


二階から流しそうめん
#今年よかった展示 その6 / ヒラキエでの二階から流しそうめん。展示というよりイベントかな。誰が想像しただろうか。そうめんが流れるスロープが光るだなんて。


Sculpture Quadrennial Riga | Riga Old Town
#今年よかった展示 その7 / latviaの首都rigaでの行われていた彫刻quadrennialで恐ろしい気持ちになった、自分が写らない鏡の作品。


遠藤麻衣「リテイク/ぼくは神の子を妊娠した」|Blanclass
#今年よかった展示 その8 / 展示というかパフォーマンス。告知の時点からもう鑑賞体験がはじまってるのズルい。いい意味で。プロジェクトとしての作品のこれからがほんと気になります。


BARRACK OUT|旧松田邸
#今年よかった展示 その9 / barrack out展。会期が延びたらしいのでまだ未見の方は是非。ママレードボーイも硬軟も面白かったけどなあ。


毒山凡太朗「経済産業省第四分館」
#今年よかった展示 その10 / 最後。順番ちぐはぐになったけど今年6月の毒山凡太朗「経済産業省第四分館」は、展示場所をアーティストがひらいて展示したことに強く惹かれた。毒山さんはTARO賞ノミネート!

2016/05/11

子供鉅人「真夜中の虹」を見てきました。

南森町のマンションに住んでいた頃は気が病んでいて会社から帰ったら寝て夜中の2時位に起きて夜の高速道路のそれこそオレンジ色の光の下を歩いたりベランダから外を眺めて聞こえてくる怒号とか泣き声に思いを馳せていた。

徘徊しているのは老人だけじゃなくて若い人もいたし立ち小便をしている人もいたし、でも笑っているし、でも他人でも別世界の人でもなんでもなくて自分だってすぐそこに行ってしまう際にいた。生活ってそういうもので、それはギリギリだったとかそういう告白ではなくて、大阪はそういう世界が隣にあった。それが当たり前だった。

弱音もはいた。泣きもした。助けてくれと懇願したこともあるし、手をひっぱられバイクに乗せられ川の土手に放り出されて笑われたこともある。喧嘩は他人事ではなかったしセクハラもイジメも万引きもヤクザもヤンキーも糞尿も垢も浮浪者も野良犬も全て毎日そこにあって、その隣にすごい綺麗な人が立っていたり笑顔が綺麗で青っ鼻たらす子どもが走っていたりもした。

鼻歌で自転車をこいで落ちているものを拾っては笑顔で去る不審者なんてたくさん(言い過ぎかもしれないけど)いたし、扉をあけたまま寝ていた老人の寝相が悪くて死体みたいに廊下にはみ出ているのを跨いでその奥のお宅に新聞を投げたこともある。パン屋の仕込みはいつも早くていい香りがしたのが懐かしい。

現実味があったんではなくて現実だった。


私は東京にきて現実を見なくなったんじゃないかと怖くなった。子供鉅人「真夜中の虹」はあまりにも辛くて酷い現実の夜を笑い飛ばす作品だ。笑えなんかやしない。痴呆の妹を抱えて生きる兄を可哀想だなんて思えない。「見つからんかったらよかったのにな」と溢れる本音を受け止められますか。「お茶でもどうですか」と無自覚の暴力を投げかける女を前に必死に逃げようとする兄の気持ちに感情移入してしまうのは、私の祖父が(ry

勝手に気持ち盛り上げて結婚を切り出すどうしようもない役者崩れの男がかっこいいですか。それをうまくいなしつつ喜ぶ女はどうですか。他人の不幸が誰かの幸せのきっかけになるっていうんですか。それが美談ですか。笑えますか。ええ、笑いましょう。感動しましょう。なんていい話だ。男は夢に向かうでしょう。でも女は男の元を去るでしょう。そういうものです。笑いましょう。笑わないとやってられませんさ。


真夜中にこそ現実の根っこが悲しい虹を見せつける。ああしんどい。つらい。でも現実の根っこに触れなければ何かを失ってしまいそうな気がする。夜更かしをしようか。でも私の年齢がそんな無理な生活を許さない。朝にはシャワーを浴びて会社に向かわなくては生活できない。

こんな話を書いてしまう益山さんが怖い。次の作品も見るのが怖いけど、見るだろうと思う。

2016/04/09

THE UNFAITHFUL REPLICA / CA2M at Madrid を見てきました。

Madrid郊外にあるMostolesというエリアにCA2M〜Centro de Arte Dos de Mayoというアートセンターがあります。そこで行われていた THE UNFAITHFUL REPLICAというグループ展で気になった作品。





 3点の映像と大掛かりなインスタレーション。映像内容は衝撃的で、住む場所を強制的に追い出される住民の映像。なんと作家の名前をメモしていなかった。展示のコンセプトシートは持ち帰ったものの、そこに書かれている作家の名前に無いような…誰かご存知の人がいたら教えてください涙




展示タイトルにある「REPLICA」は英語では「複製品」という意味ですが、スペイン語になると「(相手の意見や非難などに)言い返す」という意味を、何か別のものを提案する、返答する行為を含みます。UNFAITHFUL(不誠実な)返答とはどういう意味なのでしょうか。

コンセプトシートにあった「アートは、アーティストが本来意図していたことを変化させ、修正し、裏切る。」という一文が気になります。続く「裏切りは鑑賞者の想像の中で展開される」という一文がダメ押し。

参加している作家は「1つしか意味を持たない言葉やイメージ」が必ず失敗することに自覚的です。言語から言語へ、ある素材から別の素材へ、歴史のある側面からもう一方へ、常に意味が行き来してお互いを意味しあう作品が展示されていました。


Pier Paolo Pasoliniの作品は終わりの無い物語でした。鑑賞者は私でもあり、また作品の中にも存在していました。糸から解き放たれた操り人形の「自由」は複数の意味を行き来します。



お払い箱となった主人公はゴミ収集車に揺られて捨てられます。車の運転手が口ずさむ悲しい歌声は美しい空に、雲に吸いこまれます。主人公は捨てられた野っ原で、雲を眺めます。自由を掴んだ彼は清々しく美しい笑顔に。そこで映像が終わり…かと思うとループ。最初に戻ります。死と引き換えに掴んだ自由で眺めた雲を見たときと同じ笑顔でまた糸につながれて、主人公の操り人形は控室に並びます。





喜劇のような人形劇の映像を見ているはずだったのですが、終わりのない議論の只中に投げ出されたような気分になる作品でした。

2016/02/29

北川貴好さん、「地上階には、つながらない邸宅」を鑑賞してきました。

北川貴好さんの「地上階には、つながらない邸宅」(としまアートステーション)を鑑賞している間、実はずっとイライラしていました。告白すると。回遊したエリア、特に中心となる駅周辺があまり得意ではないのにもかかわらず、人混みの中で立ち止まったり気を使って端によろうとしたらぶつかりかけて睨まれたり。どうして私はこんな思いをして鑑賞しているんだろうかと悲しくもなりました。


まあ、それも異界への扉を開く儀式だと思えばよいのでしょう。ぶつくさ言いながらも、インストラクションに用いられたキャラクター(カッパやアシカやウサギやモグラ)との愛嬌あるやり取り(っていっても擬似的な会話であって、実際は会話させられているっていう強制も実はイライラしたんだけど)を進めました。気が付くと、普段意識したことのない単位で街(街という言葉を使いましたが、作品中は都市空間、邸宅そのものと言った方がいいでしょうか。)を見ることができました。ありきたりな言い方ですが、普段想像している世界とは違う場所にいるような感覚です。次元の狭間にある都市空間、邸宅。境界そのものへの潜入。ファニー・ヴァレンタインのD4C(いともたやすく行われるえげつない行為)の攻撃を受けているかのような感覚。中学生の時に、周りにいる人全てが宇宙人で私一人が地球人なんじゃないかという妄想に近いもの。


地上に出ることのない空間を邸宅として再設計された空間を体験する作品。実際、この都市空間の中で生活している人がいるのだと想像すると、いかに「地域アートプロジェクト」で想定している生活の現実が限定的だったか思い知らされます。そういえば墨田区にもタワーマンションが何本も立っていきます。新しくすれ違う生活者が、まるで異星人ほどかけ離れた都市空間で生活しているかもしれないことは、想像しておいてもよいのかもしれない。

安易に「他者」って言葉を使いがちだけれども、その「他者」は想像できないくらいに複雑に増殖し増幅して隣人となりそこにいるんだなと思うと、なんて面白いんでしょう。わくわくします。はらはらします。


さて、作品中に流れる映像で、地上階につながらない邸宅としての都市空間と実際にそこにある(地上にある?)街との比較というか関係について触れている部分がありました。街を見る解像度が変わればそれはそれぞれの生活から細胞の一つ、ぼやけた輪郭の「生活らしきもの」まで抽象化/変化します。

ただ同じことは、地上階につながらない邸宅としての都市空間に生きる個別の生活者についても同じことが言えると思います。邸宅内の無数の部屋で暮らす人々の生活もまた、容易に抽象化できます。単純な良い悪いの話ではない。空間と空間を直結させた地上階につながらない邸宅としての都市空間が既存の街を破壊するとか無視するとかそういう議論ではない。ただただ異次元かのような都市空間がその場に設計されていること、それを所与の空間として生活している人がいる(かもしれない)こと、生活の多様性はもはや多次元にまで広がっている(と言っても過言ではない)ということ。

現在の複雑をより理解しやすくしてくれる作品でした。