「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。:Bankart 2F


女装の私が「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。54とたくさんの作品がありました。全てを書くと長文になってしまいます。会場となったBankartは1F〜3Fにわかれていましたので、その階ごとにまとめて書かせていただきます。次に2Fの作品から。(3Fは後日掲載します。)


Bankartの2階には21人の作家さんの展示がありました。印象に残っている作品は4つで、北澤潤さん、Adam Hosmerさん、渡部怜さん、片山真里さん。


2階に上がってすぐ右側のスペースを覗くと映像が流れているのが見えます。そこは大掛かりなセットが組まれていて、竹でできた階段と、竹で組まれた居間の様なスペース。これが北澤潤さんの作品です。その日はヒールを履いていたので「あ、失敗した」と思いながら恐る恐る階段を登ると、居間の様なスペースは縁側になっていて、足を投げ出して座ることができました。せっかくだからと座って足をぶらぶらさせる。映像はネパール郊外の町に作られた「居間」に人々が訪れる風景で、今私が座っている竹の縁側と同じようなものがそこにありました。

LIVING ROOM IN NEPAL 2011

北澤さんがこの町をまわって集めた家具や道具がその「居間」に置かれています。町の人が「居間」を訪れては、語り合い、道具を使い、物々交換で新しい道具を置いていく様子。子どもがはしゃぎ、おじさんは寄り合い、知り合いを呼び寄せては日々の(多分)くだらない噂話をする。集まる人の数が増えたり減ったりしていて、単純に「増えました!」という訳でもなさそう。家具や道具もただただ変化しているとだけ言える様子。

日本の家の「居間」は極めてプライベートな空間です。家の中ですから。しかし視点を家族内に移せば、「居間」は家族における公的な空間/パブリックスペースと言えるかもしれません。来客時は特に。「居間」を拡張することで、公的な空間を実践し、関係した人たち(まちの人)に経験してもらう。私が関わっている墨東まち見世に近いものを感じました。町の中にアート拠点をひらき、様々な人を受け入れる事で、恐らく、「居間」として機能していたのではないかなと。

「居間」は共有スペースでありながら強制力はありません。通り過ぎるだけでもいい。何かそういう制限の緩さみたいなものが、北澤さんの作品から感じます。人が集まる、コミュニケーションするきっかけとしての「居間」。さて、ここは居住スペースだったのかどうか、気になります。



Adam Hosmerさんの写真はとても強烈でした。グロテスクと感じることもできるし、美しいと言えるかもしれない。ポートレイト。背景は自然の風景で、例えば、森の中だったり空の雲で、まあ所謂風景写真で場所がどこかは具体的にはわかりません。そこには人だったであろう物体が描かれています。手が震えた状態で描いたような強烈に揺れた線で何かを描きます。色や、だいたいの形で、それが手や口や歯や目や足で、つまりいくつかの写真をコラージュしてできた人なんだろうという事がかろうじてわかるのです。

違和感と存在感だけは強烈で、目を背けたくなる程。しかしながら、じゃあそれはそこに実際にいるのかどうか、という実感?実在感?は全くありません。幽霊や妖精や神様に似ていて、「お前は幽霊だってことはわかるが、じゃあ、お前は誰なんだ?」という抽象的であることが具体的になりすぎている空虚さがその写真にはあって、だから美しくもありグロテスク。

日本に移り住み、環境(宗教や文化)が変わることで変化するアイデンティティについてAdam Hosmerさんは考え、この作品が生まれました。あらかじめ人の写真をコラージュして形作ったベースの上からデジタルドローイングをし、最後にベースを削除することで人の具体性を削除する。そうしてアイデンティティを無くしたポートレイトが出来上がります。

willa 2009年 デジタルドローイング

抽象的な概念に具体的なカタチを与えて作られたのが妖怪だとしたら、人から具体的なカタチを奪い去った抽象的な概念がこの写真。人から生まれた抽象的な概念の恐ろしさに気づけたのは、よかったのかなんなのか…



渡部怜さんの「あいだの肖像」が印象に残っている理由は、その場にいられなくなったから。45x30の楕円形の額がずらりと壁3面に一列で並べられています。肖像と肖像の間の距離は短く、窮屈な印象を与えてくれます。額の中は薄暗く、肖像であることは確かなのですが、その年令や性別は様々で表情も全てがバラバラです。この肖像に映る人は生きているのか死んでいるのかわかりません。

あいだの肖像 2011 ゼラチンシルバープリント

「人と人のあいだにある空気がうつっている」と渡部さんはカタログでおっしゃっています。これだけ大量で、そして生死もわからない人と関係することは、私にはできませんでした。都合のいい距離を見つける事もできませんでした。展示空間に入るだけで、その空気に、空気の密度に圧倒され、ここは生きている人間が立ち入る場所ではないと。

後味の悪い作品は、個人的には好きではありません。「あいだの肖像」は後味が悪い作品でした。ただひとつ言える事は渡部さんの写真には「あいだの空気」が確かに存在しているということ。それは撮影の技術なのか見せ方の技術なのかそれ以外の何かなのか、うまくは言えませんが、作品として強烈に機能していた事は否めません。

私たちはそういう空気をあいだに置いて生きている。



展示する場所との関係や、場所によって文脈が変わる作品、その場所でしか成り立たない作品、といった話は、地域アートプロジェクトに関わることでよく聞くようになりました。片山真里さんの作品は場所を選びません。少なくとも私はそう感じます。極めてプライベートな作品は、場所の影響を受けず、ただただ「これが片山真里だ」と断言して存在していました。

untitled 2010 2010年までの作品インスタレーション(nca)

床に割れたハートを模して義足や何かの瓶詰めや抱きまくら、ダンボール、テナントなどが配置されています。これらは片山さんの部屋にあるもの全てを用いたと言います。展示中、全てのモノが搬出されたお部屋は全く何も無い状態で、誰の部屋なのかがわからない状態。つまりこの作品は片山真里さんの部屋そのもので、つまり、彼女のプライベートの凝縮です。全ての制限や文脈を無視し、自身を凝縮したカタチで伝えることそのものが作品。私の勝手な解釈かもしれません。しかし彼女の作品を見ると、そう感じざるを得なくなります。

壁には早朝と夕方に片山さんの自室で撮影されたポートレイト。これは「ハイヒール」と題されていています。アメリカから取り寄せたハイヒールを履いて歩ける義足を手に入れた彼女の作品。義肢を取り巻く日本の環境は不十分で、歩く事以外の選択肢を用意していません。当たり前と思っていた選択を再確認させる力を持つポートレイトもまた、片山真里さんにとっては極めてプライベートな作品でした。


私が作品を訪れた際、彼女のご家族がいらっしゃっていました。お母様、お父様、妹さん、お祖母様。作品の前にご家族が並び、記念撮影をされていました。その瞬間のことです。作品がよりプライベート性を帯び、力強くなりました。貴重な経験。なかなか無いと思います、こんな偶然。



またまた長くなってしまいました。Bankartレビューは3階を残すのみ。これもまた素敵な作品が多くて長文になりそうです。

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」レビュー
Bankart 1F
Bankart 2F
Bankart 3F

※その他、2階の作品:
ゲームで震災に関する世界を経験できる西田陽美さんの作品。赤い玉がディスプレイ間を飛び越える映像の宇都緑さんの作品。男と女の区別がつかない二人の写真(恐らくどちらも女性)の小杉阿有子さんの作品。新聞をモチーフにした李さんの作品。CGで合成された顔の写真の泉卓志さん。多様な視覚とサウンドスケープ、という論文展示の張世用さん。船、花崎草さん。高橋洋介さんはご自身でデザインされたパンフなどを展示。虹をつくるプロジェクトの上坂優衣子さん。尖閣諸島が沈む映像、潘逸舟さん。影の彫刻、知念ありささん。12歳の頃つくったモンスターを再構築した出水あすかさん。水鳥が飛び立つ清水なつみさん。美術の時間、足立真悠さん。

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上記記事で使用した画像は下記サイトより転載いたしました。
http://www.geidai.ac.jp/event/sentan2012/