大駱駝艦を見てきました。(長文)



女装の私が、吉祥寺で大駱駝艦を見てきました。当日は昼間の仕事の残りをした後という事もあり男装でした。





吉祥寺の駅に降りたのは久しぶりです。そこで降りる人を見ていると、山の手線の内側を凝縮したかのような、ミニマム東京の印象を受けました。人が山のように折り重なって歩いている商店街を避けて、北へ北へ。商店もまばらになった所の、とあるマンションの地下に壺中天がありました。白塗りで着物を着た男性が立っています。これは間違いない。間違いようがない。





世田谷パブリックシアターや、大阪フェスティバルゲートにある舞台では見たことがあったのですが、壺中天は初めて。客席の狭さに驚きました。そしてアナウンス(肉声)。「大変混み合いますのでお荷物をおあずけください。お客様はなるべくコンパクトにお座りください。」なるほど。





事前に脅されていたので満員になってもさほど窮屈さは感じませんでした。舞台には白塗り着物の演者が二人。トイレに行こうとしているお客様に舞台を歩く事を薦めてらっしゃいます。客は自由に舞台に上がり、右奥にあるトイレへ向かう。これから始まる舞台の緊張感を全く感じさせない懐の深さ、自然な空気を私はとても心地良く感じていました。








照明が落とされ舞台が始まりました。言語化できるもの、言語化できないもの、全てが渾然一体となって展開していたので、すいません、伝えきれません。なんとか目に見えた範囲で頑張って書くとですね、まず舞台の真ん中には壁がありました。壁の真ん中には穴がありました。「壺ひっくり返っちゃった大作戦」という題目です。おそらくあの穴は「壺の口」なんでしょう。その壁のこちら側(観客側)とあちら側(舞台側)で演者が動きます。





いくつかの小題目を立て続けに演じ、それらが紙芝居の様に一つの題目を構成します。穴の向こうと穴のこちら側にコミュニケーションは存在します。演者が穴から這いでてきます。演者が穴に帰ります。穴の向こうから覗き込む存在がいます。穴の向こうで小学生の扮装をした髭面の白塗りの演者が全く違う時間の流れの中でゆっっっくりと歩いています。穴から物が飛びててきます。穴へ物が投げ込まれます。





壁はただ佇むだけではありません。前へ後ろへ動きます。倒れます。倒れるので穴から人が這い出る様子はよくわかります。斜めになった壁は人が昇る事を許します。上から人が落ちてくることもあります。穴を人がまたぎます。人がまたいだ穴へ手を突っ込んで何かを取り出す人もいます。何かが出てくる時、またいでいる人はまるで妊婦の様に苦しみます。産みの苦しみです。またいでいる人は男性です。





壁の前に食卓が用意される事もありました。最後の晩餐です。天井から丸い金の輪っかがつるされる事もありました。そこに天女がいます。天女は金の輪っかの中で踊ります。踊りと言っていいのでしょうか、私にはわかりません。あまりにもゆるりとした時間の中で、空気をあやつるかのように動くその様子は、踊っているとしか言いようがないのですが、私には儀式に見えました。





一つ一つの展開は10~20分程しかありません。そこには時間以上の内容が在りました。時間という概念が全く意識されない。中身、内容の濃さが意識される不思議な空間でした。周りの人は滑稽さを見つけては笑います。私は笑う事ができない場面では笑いませんでした。周りがいくら笑っていても私は笑いませんでした。泣きました。理由はわからないのですが、なぜか涙がでてきました。





白く塗られた人は肉体しかありません。余計な言語はありません。私たちはそれを見るとき言語を用いて理解する作業を経ず受け取ります。肌から皮膚から筋肉から骨から内蔵から脳から神経から伝わってくる信号を、そのまま受け取る事ができます。そして後になって、今、私がしているようになんとか言語化するのです。私が受け取った感覚は「記憶、衝動、欲望、ナンセンス、ナンセンスからの美、ナンセンスだから感じる恐怖、誕生、崇拝のメカニズム」。そしてそれらの「発現」でした。





穴の向こう側は壺の内側だったのでしょうか。穴のこちら側が壺の内側だったのでしょうか。説明はありません。私たちが解釈するしかありません。私にとってそれは「クラインの壺」でした。内側は外側であり外側は内側でもありました。内側、外側の概念はありませんでした。在るのは境目としての「壺の口」だけ。比較対象は「壺の口」しかありません。その向こう側に見えるものは、比較対象ではないのです。それぞれは無関係です。もしかすると関係があるかもしれませんが、関係があると思った人にとってのみ関係があるのです。





混沌としてしか表現できない「それ」に、「壺の口」が「発現」のきっかけを与えます。そうして最後には宗教画に似た構図と佇まいと存在感を持った「絵」に落ち着きます。終着点はそこしかないのでしょうか。おそらくそこしかないのでしょう。私たちは、終着点を見つける事で持っている混沌をなんとか整理し、いわゆる正気を保っています。無秩序な混沌には、滑稽としか言いようがない可能性と広がりと深みがあるのだと、感じる事ができる舞台でした。








見る人によって感じ方の違う舞台でした。だからこそ、今年の締めくくりに選びました。今年の私を再確認することができました。本当にありがとうございます。





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